ホースセラピーとは

ホースセラピーについて 目次

1.名称について
2.ホースセラピーとは
3.スポーツとセラピー
4.「余分なスポーツ」
5.心のスポーツ
6.ホースセラピーの内容
7.身体のホースセラピーについて
8.人馬一体の本質
9.セラピストの役割
10.平等と対等の心
11.木曽馬と人

1.名称について

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『ホースセラピー』とは、「アニマルセラピー」と「スポーツセラピー」などの総称です。
「馬を使ったセラピー」と定義付けています『乗馬セラピー』という言葉でも言われていますが、
あえて『ホースセラピー』と命名します。『乗馬セラピー』を欧米では『ヒポセラピー』『エクインセラピー』という言い方をするようです。

私自身は、欧米の『ヒポセラピー』の内容について 詳しい情報を得ていないので、私なりに命名しました。(1989年当時)
この『ホースセラピー』という言葉から、日本人には、何となくイメイジを抱けそうですが、英語ができる人にとっては、「馬のためのセラピー」という感じがするようです。
現代の社会状況では、馬にとってもストレスのたまる住みにくい社会になていますから、馬のためのセラピーも必要になることとおもいます。
そんな意味では、馬も人間も一緒にセラピーを受けるのもよいでしょう。お互いにセラピーを施しあうと言う気持も大事なことです。

2.ホースセラピーとは

セラピー(治療)の原点は、馬に触れることから始まります。
一度馬の首を撫でてやりましょう。そこには、すべての答えがあります。
そして次に枝葉のごとくさまざまなテクニックによるセラピーやメディケイションが待っています。
ワークショップ、エクササイズ、機能回復訓練、瞑想など
細い馬や太い馬に、またがること
背の高い馬やせの低い馬に、またがること
リズムの早い馬やゆっくりした馬に、またがること
おとなしい馬や怖がりな馬に 触れること
新しいことや恐いと思つてることに挑戦して、それを成し遂げること
それらはすべてがセラピーであり、人の心と体を癒し、正常な状態に治療してくれます。

3.スポーツとセラピー

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ホースセラピーは、競技に勝つことや記録を向上させることを目的とするものではなく。
自らの心と体の実態を知り、自らに生きることを学ぶことであり。心とからだの共創の中に、人としての生き方、あり方を発見する。
その意味でスポーツとはおのずから別の道を進んでいます。

ゲームスポーツの形体を模倣することを目指すのではなく、それを成し遂げていく時の過程を大事にし、
その過程に生じる成長や発見を目指していくことが、単なるスポーツとの相違点であると考えます。

すなわちプロスポーツの頂点にあこがれ,それを目指す子供たちや彼らを取り巻く大人たちと、スポーツをセラピーの手段と考え、
実践する人々とは、技術レベルがどうであれ、その手法がどうであれ、目的の違いが、心と体に及ぼす効果及び成果において大きな隔たりとして現れるのです。

技術と体力と成績の向上を目指すスポーツは、人の寿命を短くすると言われます。
歴史の中で現代の人々は、基礎体力が向上し、寿命も伸びている事も事実です。
しかし、長寿の人々が、スポーツを長寿のためにやったという話は聞かれません。
彼らは、日常の労働や家事労働を、かかさずに行つてきたようです。
自分の生き方に何の悔いも持たず,自然体で生きているようです。
すなわち、その生き方が彼らの心と体のバランスを常に保つように仕組まれていたと考えられます。
さて現代において、彼らと同じ条件で暮らすことは不可能です。
なぜなら社会条件が,科学技術においても,交通機関においても、住環境においても、食生活においても、また社会体制においてもあらゆる面において異なります。
少なくとも労働と言う面において、同じ量と質の労働を行うことは、望み得ない状況になっています。

4.「余分なスポーツ」

このような社会の動きの中でスポーツが ある意味で労働による未消化エネルギーの代替消化法であるような捉え方が為されてきたと考えられます。
すなわちそれを称して『余暇スポーツ』と言います。

しかし『余暇スポーツ』も心と体のバランスをとる目的から技術と成績の向上へとその目的を移しています。それは闘争心を人間が持つためだと思います。
そこには落とし穴があります。心への過度な負担となり。また体への過重な刺激となります。
これによるアンバランスが、心と体を虫食み、多くの障害を生み出すことになります。
障害を生み出さないために提案されたはずの『余暇スポーツ』が『余分なスポーツ』になってしまいます。
なぜ『余分なスポーツ』になるのか。
それはその対象となるスポーツの多くが日常性からかけ離れたゲームスポ-ツであり競技スポーツヘの憧れを集客の看板にしているからです。
例として野球 サッカー、テニス、ゴルフなど、スポーツ自体が目的となり 健康とは名ばかりで、
ビジネスや親睦のための手段になり。身体の具合が悪くても参加するような命取りゲームになっていたり。
成績やゲームのための施設作りがなされ。それまでの過程が捨て去られてしまうところに問題があります。

5.心のスポーツ

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余談ですが 水泳を例に考えてみましょう。私は 水泳はできないものであると確信していました。
あのプールの水の臭さ 冷たさ 水が鼻の中に入った時の痛さ 耳の中に入った時の不快感
口の中に押し入るあの水たち、そして真っ暗な水の中、だんだんと沈んでいくような恐怖感。
そんな私にとって それを気にせず泳ぐ人々は異常に見えました。
きっと彼らは魚の生まれ変わりでえら呼吸でもしているに違いないと思っていました。
こんな私には水泳を語る資格はないかもしれませんが、あえて話そうと思います。

それは障害者スポーツ指導員の研修で水泳実習に参加したときの体験に基づくものです。
ほとんどの人が 水泳とは縁のなさそう顔ぶれで(実際は泳げないのは私だけでした) 目的も障害者に対する水泳の指導と補助ということでしたので。
泳げない私にとって何の障害もなく その仲間に入ることができました。
そしてなんと水泳の指導をうけてしまったのです。
そこで感じたことは プールのすばらしさと 指導してくださった指導員の指導の上手さもあいまって
私が水に抱いていた嫌悪感 プールの水の臭さ 冷たさ 水が鼻の中に入った時の痛さ 耳の中に入った時の不快感
口の中に押し入るあの水たち そして真っ暗な水の中 だんだんと沈んでいくような恐怖感
これらの感情はほとんどぬぐい去られました。

そこには、浮き上がって軽くなったような体の感覚、美しい水中、大の字に浮かんだ自分の体と水が一体となったような感覚。
そこには、ぼっと光る球のような意識を持つ自分があり、いつの間にか水も空気もそこにあるすべてが溶け合い一体となる空間がありました。
水の中にいることも、水の中を歩くこともすべてが心地よい体験でした。
まだ泳ぐという動作は、息継ぎも十分できませんが、今まで小中学校で味わってきた水泳に対する敗北感は
できそうだという希望に変わりました。そこから学ぶことは 自ら作り出した恐怖心などによる自己制限でした。
その制限している自分を乗り越えていくこと、その体験を一般社会で生かしていくことだと思います。

もし、ここに競技が持ち込まれていたら、当然私は落ちこぼれてしまうでしょう。
また参加者の幾人かも落ちこぼれたことでしょう。
そしてもし参加したとしても何ら得るところなく、ただ騒ぐだけで終わっていたかもしれません。
これは決して競技スポーツを否定するものではありません。競技に参加することは、次への挑戦と言う意欲を培うことができます。
人々が生きていく上で向上心がなくなると駄目になるとか、生きがいを持てとか言われますが、競うこともそうした気持の現れです。
そこで、私が懸念することは、競技のためのスポーツになったり、競技スポーツだけがスポーツをやることといわれ
その種目をやらなければいけないように強制され、しむけていかれることを懸念しています。
そのようなスポーツのあり方がよいのか疑問です。

6.ホースセラピーの内容

ホースセラピーの基本は 馬とともに時を過ごすことです。馬が仲間であるということです。
馬はパートナーであり、手段です。人を考えたとき、つねにその人が求めるセラピーに適合した馬を提供することが、重要になります。
その意味で馬は道具であり手段だといえます。
それは決して使い捨ての道具ということではなく、馬にとっても不適合な人とのセラピーは苦しいもなので
無理な組み合わせを続けることは、重大な障害を馬に与えることになります。
これは、人と人との組み合わせの場合と同じです。方法について少し話しましょう。
方法の原点は 前にも何度も話しましたとの触れ合いということです。

第一に 馬を見るということ
一日中眺めるのもいいでしょう。
馬を写真にとったり、絵に画いたりするのもいいでしょう。

第二に 触りましょう。
草や人参を手から与えたり 首や頬を撫ぜてやりましょう。
自分の頬を馬に着けるのもいいかもしれません。馬と話をするのもいいでしょう。

第三に 馬の体を擦つてやりましょう。
背中を擦つてもらうと気持がいいように馬もきつと体を力強く擦つてもらったら、気持がいいと喜ぶことでしょう。
相手が喜ぶことを知ることは、もっと自分に気持がいいでしょう。

第四に 馬の回りの環境に気遣ってやります。
相手が気付かないことをすることはもっと気持がいいでしょう。
一人無心に汗を流すことは、すべての自分を忘れさせてくれます。
新たな自分 成長した自分 すばらしくなった自分を見つけます。

第五に 馬に乗ってみましょう。
その大きさや高さ そして今まで見たことのない世界を見ることができます。
今まで目の前にあった光景すべてが 新鮮にあなたの心に飛び込んできます。
何気なく無神経に捨てた小さなゴミ屑も突然気になりはじめます。体の中がすっきりします。

第六に 馬を動かしてみます。
歩くことも 走ることも 円を描くことも 自分勝手にはできません。
馬と心を合わせ馬がやりきるのを監督します合図をしながら 目的を持つことを学びます。
馬が動くのではなく いつの間にか自分で動いていたことに気付きます。でも自分が動いては行けません。

第七に 馬と自分と自然の中に溶け込んでみよう。
人馬一体とは行かなくても一体感に挑戦してみます。自由な本当の自分に気付きます。

第ハに 仲間と馬とみんなで駆け回ろう。
人との触れ合い 仲間を世話すること 何かを協力して成し遂げること そこにまた一つ喜びが待っています。

第九に また馬を見よう

これが方法のすべてです。これらのすべてをまた必要な段階をそれぞれの求めに応じて処方します。
何故馬とのぶれあいが心と身体のリハビリ
それをホースセラピーと言えるのか?
馬は 人との長い生活の中で 自然をその中に常にもち続けてきた動物です。
野生の動物しか自然を持つていないのではなく 我々人類においても生まれてしばらくはその中に自然を持っています。
「赤子」とか「童心」とか 言葉や動作は未熟でも彼らの心は大人の心をすべて見通しているような体験をよくします。
そしてこびる事なく自分を素直に表現しています。それが自然だと思います。
あるがまま 太陽と地球大地と地球環境に育まれ成長していくもの それが自然です。
その象徴として人々は山や川 森や海 そこに自由に生活する生き物たちを差して自然だといいます。

わたしたちは 科学力とか人知とか 自らを万物の霊長といい 人類の一部の幻想ともいえる繁栄と発展の中 すべてを探り すべてを征服しようとしています。
そしてそのような無意味な行為を夢のある素晴らしい事だと 称賛し反対者の少ないことをいい事にもっと少ない賛同者が大きな声で「近代化」とか「進歩」とか
人々の心をくすぐる言葉で民衆を操り、自分だけの欲望を満足させるだけのために長い歴史を欺きながら過ごしてきました。
特に20世紀には正に末期的繁栄の状況となりました。
世界各国の政府においても、そうした「行動や行為」をすべて止める事はしないまでも 「行動や行為」の継続が人類だけでなく
この地球全体に危険である事をとなえ始めました。
しかしわたしたちの身近においては 政府が危険を訴える小さな声は 高度成長とか発展 開発などという耳についた大きな声の残響によって打ち消されています。
馬との触れ合いば この大きな声の残響を止め静寂のなか 小さな声が聞こえるようにしてくれるものであると考えます。
これには 多くの手段があるでしょう。
しかし馬との触れ合い 馬の存在感が 人々の心深くに与える影響は最良であろうと考えます。
実践者や体験者は口をそろえていいます。

「これしかない!」

これが 心へのホースセラピーです。
心の障害は恐らく 自らが自らの存在に気付くことで取りさられるか 乗り越えることができるでしょう。

7.身体のホースセラピーについて

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心と身体は一体
跨ぐ事により 股間の開放と膝を締めながら、馬に触れながら身体を動かす事になります。
これは、日常的な動きではなく 常に適度の緊張感を持ちながら身体を動かします。
一定のリズムを持ちながら複雑な動きをします。この動きが身体に快適な刺激を与えます。
馬の複雑な動きに身を任せ 身体を動かされる規則的な動きは人の手や器具によるリハビリでは生み出せないものです。
馬によるリハビリを体験した多くの人々の感想は、従来のリハビリに比べて効果が大きいと言う事です。

短時間で効果があり、苦痛も少ないとも聞きます。
例えば、正しい乗馬姿勢でいる事は、セラピーではすでに運動なのです。
東洋医学に於けるつぼや経らくに刺激を与える多くの運動は、馬に乗る状態の中に包含され 意識的にその体操をしなくても
騎乗者が馬に正しい姿勢で乗る事を心掛けるだけで 馬に身体を任せるだけですべてが与えられます。
騎乗者の状態に応じて、停止した馬に乗ること 馬の上で体操すること
ゆっくりとした常歩やゆっくりとした速足など、そうした動きに身体を預けるだけでいいのです。
正しい姿勢とは騎乗位でなければ鞍上でなければ得られる事はできません。
立位での正しい姿勢は 更にゆがみを拡大増幅させるだけです。
立位に於ける場合はその人の足長は左右それぞれ異なります。
それは骨盤をゆがめ背骨をゆがめ首をゆがめそれらを補正するために 更にゆがみます。
直立して歩く人類にとってバランスが取れていない事は当然です。これは座位でも同じです。
鞍上もしくは馬の背に正しくまたがることは 直接に腰骨が正位に保たれます。
要となる腰骨が正位に安定することにより すべての部位は正しく修正しやすくなります。
また馬の動きは 大きく3つの歩様に分けられます 更に強弱で分けられます。
その動きは複雑で 音楽に踊り身体をほぐすように、徐々に心と体の緊張をほぐしてくれます。

8.人馬一体の本質

馬は 生き物ですから彼等自身も身体のゆがみを持っています。
このゆがみは彼らにとっても健康や運動機能に影響をもたらします。
その意味でも馬のためのストレッチやマッサージ 針または灸なども必要になるでしよう。
しかしなら出来るかは 医師の指示にしたがって下さい
彼らの運動の内容をチェックする事で改善できます。これは人と同じなのです。
我々人間は自分だけが特別であると考えがちですが 所詮人間も生き物なのです。
彼らのレベルで考える事も また彼らを自分と同じレベルで考えることも どちらも大切です。
馬は人間のために彼らのバランスを崩してくれます。
人間がいつまでもバランスが取れないままでいると また意識してバランスを崩していると 馬は体調を崩してしまいます。
しかし 人間が努力して正しいバランスが取れるようになると馬のからだのバランスも正しくなります。
この相互効果が 人に優しいということです。

ホースセラピーの対象はどんな人か?
ホースセラピーとは誰でも
どんな条件を持つ人でも受ける事ができます
ホースセラピーは 特別なものではありませんからホースセラピーが始まります
人がいて馬がいれば そこにホースセラピーは生まれます。

ホースセラピーは その身体の状態によってできない段階があります
運動の段階は 骨の欠ける危険がある人 特に速足などで鞍の上で 身体が踊ることで脳や神経、背骨などが折れる危険がある人などはできません。
当然 打ち身や擦り傷などが生じる危険がありますが 騎乗の段階では覚悟して下さい

危険は どんなスポーツにもつきものです スポーツの魅力は 危険の度合いと正比例しているといっても過言ではありません
技術が向上すれば当然高度な危険に直面することでしょう。それを乗り越えるところに楽しさがあります。
しかし 人には乗り越えられない危険もあります ホースセラビイは この危険を乗り越えることを目的としていません。
危険に近づくことは 必要と偶然にはありますが。
その人の能力の範囲であり 十分に時間をかけて 能力と技術の確認をしながら 必要な人は 医師などのカウンセラーやセラピストの指示に従いながら行います。
人の健康状態を考慮し改善するように進むところに スポーツとセラピーの違いがあると思います

9.セラピストの役割

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馬の形体による個々の特長は セラピーにとって 重要です。
いわゆるリハビリ効果として 患者の腰及び股に与える効果と 動きによるリズムが全身に与える効果には注目すべき点であります。
忘れてはならないことは 馬の気質です。触れ合いの中から生まれる安心感と信頼感 そして暖かさを馬に期待するからです。
そこに生まれる 人と馬との 心の交流が大切なのです。
この処方がセラピストの役目であり このような機会を提供する場面に導くことも セラピストの役割です。
そして 治療するのは 馬と治療を受ける患者自身です。セラピストとの最大の役割がもう一つあります。
それは 患者が治療を忘れ 症状の中に埋没してしまうことから 治療の場へと引き戻すこと ただし焦らずに

『ホースセラピー』を行う場所
ホースセラピーは 馬が嫌がる場所を除いて どこでも行うことができます。
都会の真ん中でも ビルの中でも しかし人にとってやはり木々の茂るような自然の中の方が気持がいいでしよう。当然馬にとってもです。
理想的には毎日馬に乗れるようなできるだけ住まいに近いところに施設があることは望ましいことです。
たまには 旅行をかねて長期に どこか自然に囲まれた場所で乗ることもいいと思います。出来れば いつも乗り慣れた馬を連れていきたいですね。
この一寸夢のような話は 欧米ではそれ程珍しいことではないようです。日本でも車に犬を乗せている光景をよくみかけますが それと同じことです。
馬にとっても 人にとっても 景色が素晴らしい場所で走り回ることは お互いの関係をより結束させ素晴らしいものにします。
セラピーは ここまで環境のことを求めているのではありません。
気軽に馬と触れ合い ちょっと跨ぐことができる この程度のことを生活の中にとり入れてほしい。
その環境の存在こそが 一つのホースセラピーの大きな意味であると思います。
そして ホースセラピーが普及することは 社会をセラピーすることにもなると考えます。

馬の特長
馬を比較する部位は 胸の広さや胴体 とくに 人が騎乗する部分の広がりや形体が人に及ぼす影響が重要です。
また 馬の足の形体は 動くという最大の目的から見ても重要です。馬の特長については改めて述べることにします
馬の形体の個々の特長は セラピーにとって 重要です。
いわゆるリハビリ効果として 患者の腰及び股に与える効果と 動きによるリズムの効果が注目すべき点でありますが
忘れてはならないことは 馬の気質です。触れ合いの中から生まれる安心感と信頼感 そして暖かさを馬に期待するからです。

馬の動きを体験できる機械が開発されていますから なれるための下準備として経験する事もよいでしょう。
手順を覚え 動きを予測しておくことは余分な恐怖心を取り除く役目をします
また多くの人々の手助けを必要とする人々にとって対処のしかたを確認しておく事も ボランティアの連携をトレーニングするにも有効だと考えます。
どうしても生きた馬に乗せる事ができない人にはこれだけでも有効だと思います。
しかし 十分に機械でトレイニングしても 馬に乗つた時の感動は変わりません。
心のゆとりが生まれることが期待できる点に機械の木馬を利用する効果があります。
本物の馬に触れる事は 万人にとって この上ない幸せを心の中に満たしてくれます。
跨がった時も 第一歩を踏み出した時も そして一人で乗れた時も すべての瞬間に毎回新たなときめきと喜びを感じさせてくれます。
その喜びはすべてのストレスを取り去ってくれます。更に歩き続け10分から15分しっかり歩かせれば身体のリハビリの一つの段階は完了です。
セラピーのやり方には その人の各段階ごとで求めるものが加わります。
乗馬は独立した課題の包括ではなく 段階的積み重ねです。
そして変化します 器具では常に動きが一定ですが 馬は毎回変化しますその動きの変化に気付く事も心と身体のセラピーです
このほかにもホースセラピーにはまだまだ多くのやり方があります。

10.平等と対等の心

ホースセラピーの特長は,すべての人が『0』(ゼロ)から同じラインに並んで取り組む事ができることです。これはほかのスポーツにはあまり見られません。
一般のスポーツでは、それぞれの人がハンディを負いますが
馬の場合は鞍数という経験、馬の能力(運動機能、調教度合い)などが重要で、人の能力(機能)で差別する事はありません。
競技では大人の中に子供が参加して優勝をさらう事も珍しい事ではありません。
もちろん男女や年齢で差別する事はありません。当然心身のハンディは考慮されません。
される必要はないと思われています。これが対等であり平等だと思います。障害を持った女性が
オリンピックのメダリストになった事は彼女の努力もさることながら、馬の上ではすべての人が対等である事を物語る好例だと思います
では乗馬には本当に差別がないのでしょうか

差別を受ける乗馬
日本では、明治4年頃まで 一般人が馬に乗る事は法令で禁じていたという事も聞きましたが、すでに誰でも乗れるようになって100年以上たっています。
馬は、心ない人の偏見と差別の中細々と生活しています。昔は管理の方法が悪く匂いや蝿の問題がありましたが
今ではよほど管理を怠らない限り、下手な人の家内よりも快適です。匂いにうるさい人々もそろって驚かれます。
糞の匂いも、人間の匂いに比べとくに臭くありませんし、手でもっても天気がよければ泥団子のようになっています。
人間同士の偏見や差別は、生き物に対する偏見と差別を無くさない限り越えられません。
何故なら偏見や差別は、それぞれの人が勝手に作り上げるものです。人間同士では利害という大きな障害がありますが、生き物にはありません。
彼らは人間の勝手を今までも、これからも受け入れてくれるでしょう。
そんな生き物たちを偏見や差別でいじめ続ける事をやめる心が、人間にできる習慣が付けばだんだん人間同士の偏見や差別もなくなると考えます。
人々は自分自身で作り出す幻想に振り回され病になります。また他人を病にしてしまいます。
早くその事に気付き心豊かで平和な人々の生活する地球を、生き物たちとともに作りましょう。それがホースセラピーの目的です。
ホースセラピーの普及によって 是非 馬をもっと身近に置いて 気軽に触れ合える 優しい社会が築き上げられることを願っています。

11.木曽馬と人

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木曽馬は御嶽山を中心とした広い地域で生産育成され、その厳しい寒さ山に囲まれ平坦な土地が少ない山間地の風土に適した馬となりました。
日本の優秀な馬種として多くの名馬を輩出して有名です。いや、有名でした。
このことは、現在木曽馬が優秀な馬種から駄馬になったということではありません。
木曽は山岳地帯であり、道は険しく荷物の運搬輸送に補助が必要でありました。
日本の国土は狭く、野生の馬や大型の馬を育むには不十分です。日本では、馬は、人と共生しなければ生きていけないほどの国土しかありません。
木曽では、馬は家の中にあり、一家の一員でした。
人々が暖を取り、食事をする囲炉裏のそばに、肩寄せ合う人々の脇で彼らも飼い葉を食んでいました。
今流に言えば、室内犬やハムスターなどが飼われているのに似ています。
しかし、馬はペットではありませんでした。あくまでも家族の一員であり、人々とともに働いたのでした。
今流に言えば自動車のようなものでした。在来馬は、日本のどこの地域でも同じように飼っていました。

では、なぜ有名であった木曽馬たちが居なくなったのでしょう。 日本は馬たちにとっても日本にすむ人々にとっては不幸な歴史をもつ国です。
このような不幸な国は、おそらく日本だけです。日本は、本来多くの馬種を持つ国でした。
それは、戦国時代までのなごりかもしれません。馬は貴重な財産として各地で競って生産され、それぞれに優駿を多数生産していました。
そのころはおそらく馬にとっても、日本という国にとっても幸せであったでしょう。
明治維新以来、富国強兵のもとだれでも身分にかかわりなく乗馬することが許され
馬にとっても人にとっても、もっと幸せな時代がやってきたといえます。

しかし、戦争によって馬の改良が必至となり、馬事育成は外国の大型馬にも負けない馬種を生産する方向に向かったのです。
これは国内における在来馬種の危機でした。そうした時代の流れの中、日本は国力以上に戦線を拡大し
日本の馬たちを中国や東南アジアの諸国に兵馬として派遣され、日本国内の馬は減少しました。
そして敗戦。ほとんどの兵馬は死に、生き残った馬はその地の馬となり日本に戻ることはありませんでした。
日本に平和が戻り、残った馬たちにも平和がやってきました。
人も馬も、またもとの生活にもどるかに見えたが日本の馬種にはそれがありませんでした。
木曽馬などの在来馬は、敗戦後の経済復興政策の影に不要のものとして消え、一部愛好家の手に残るだけとなりました。
経済成長の中で競馬が人気を集めたことが、在来の馬種を全滅の危機に拍車をかけたのです。

現在では、木曽馬をもう一度純粋な木曽馬として種を保存するように取り組まれています。
その結果150頭近い馬が木曽馬として登録されています。
しかしこの基準は厳しく外観が木曽馬の基準から外れた馬は、木曽馬の両親をもっていても木曽馬とはいわれないのです。
これは木曽馬という種の再生保存には重要なことです。
しかし我々にとって重要なことは、また必要なことは、こうした優秀な木曽馬や他の日本の在来種を活用していくことなのです。
在来種は小型で欧米流の大人のための競馬や競技乗馬には向きません。

しかし欧米でもポニーを利用する子供たちがいるように、日本でも子供向きの馬として活用すべきです。
私は長年乗馬に親しんできた中で、障害者乗馬を知り
ホースセラピーという考え方で多くの人々に乗馬をとおして癒しということを提供してきた経験から、木曽馬などの在来馬の普及と言う事を提案します。
それは、学校区とか小公園などを中心とした地域で子供たちを中心に、馬を知る大人たちが共同で馬を飼育し、ふれあい、乗馬などをすること。
そしてその機会を他の人々にも提供していく場として、地域のコミュニケーションの中心地、発信地としていく活動を提案しています。

これが馬のいる風景、馬のいる街づくりです。
馬は心を癒してくれます。
馬は運動を助け、身体を健康にしてくれます。
馬は生命の大切さを教えてくれます。
馬は他の人などを気遣う気持ちを育ててくれます。
馬は人と人を結び付けてくれます。
馬は環境に優しいです。
21世紀は人と馬の新たな関係を構築する世紀です。
そのキーワードはまさに馬なのです。